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小出前JC副議長 |
ただいま加藤議長から過分なものをいただきまして、ほんとうにありがとうございました。
振り返ってみますと、ちょうど5年間、JCの副議長あるいは連合の副会長としてこの運動をやらせていただきました。
私は、率直に言って、皆さん方が言われているように高く評価されるような運動をやってきたかどうか、自分では疑問でございます。ただ、おそらく時代の環境がそんなことをさせたのだろうと思っております。
JCの中では、いろいろなことを言わせてもらいました。そのことが結果的に評価されたのかとも思いますが、私がこの5年間の運動の中で一番やらせていただいたことは、もう皆さん方ご存じのように、連合で中小共闘を立ち上げることをやらせていただいた。このきっかけとなっているのが、私がちょうどJAMの会長になって、連合の副会長に行ったときの秋の連合の討論集会の中でどういうことが起こったか。2002年の春闘で金属労協はベア1,000円の要求をしたけれども、結果的にベアゼロで終わりました。そのことが連合の中の多くの中小の皆さん方から、いまだに覚えていますが、5産別から意見が出されて、JCそのものがもっと強い交渉をし、それを連合は指導すべきだという意見があちこちで出されたのです。私は、そのとき、金属産業のこれからの春闘というのは、体系維持分相当というのが当分続くだろうと、これをそのまま放っておいたのでは、おそらく連合運動の中でJCそのものが大きなバッシングを受ける可能性がある、そのために何とかしなければいけないと。確かに大手を中心としたその当時の賃上げは、体系維持分相当を確保するというのが原点でございました。
しかし、圧倒的に多くの中小はベアゼロの影響を受けて、賃上げゼロということなのです。その結果としてどういうことになるかといったら、中小の賃金は必ず下がっていく。これに対して何とかしなければいけない。これが中小共闘を本格的に立ち上げる1つのきっかけでございました。
もう一つのきっかけは、翌年の春に中坊公平さんが連合の評価委員会の答申案を出されました。そのときの記述の中に、これからの連合運動は、大手を中心とした労働運動では連合そのものが市民権を失ってしまう。したがって、これからは、中小、パート、あるいは未組織の労働者を対象に、そのときにはまだ「派遣・請負」という言葉がクローズアップされていないときでございましたので、そういう表現になったわけでございますけれども、それを機軸に運動をやらなければ、連合運動はもはや社会から抹殺されるというのがその当時の中坊公平さんの答申でございました。
そのような影響を受けて、今の木連合会長がまだ副会長のときに、UIゼンセンと一緒になって、中小を何とかしないと大変な時代になるので、おまえが中心にやれと言われました。連合副会長になってまだわずか1年も満たないときでした。
結果として、そこまで後押しされるんだったら、何らかの形で運動をやらないといけないだろうという思いで、2003年に中小を抱えた産別の皆さん方のところを回って、連合中小共闘というものをお互いに立ち上げようではないかと。そして、2004年から本格的に中小共闘を立ち上げさせていただいて、結果的に2007年までの4年間ということになりますが、いろいろな方にご理解をいただきながらここまで進めることができました。
ただ、その中で私が1つだけ皆さん方に誤解をしないでほしいということで申し上げておきますと、3年ぐらいたったときにマスコミの皆さん方は中小共闘という取材にあっちこっちから来られます。そのときに、日本の賃金を決めるのはJCを中心とした金属労協の共闘ではないか、何で中小共闘を立ち上げないといけないんだと、こんなことをマスコミの皆さん方からいろいろな形で質問されました。最初は、懇切丁寧にJCのいろいろな動きがこういうことになっているんだと説明し、このまま放っておけば中小の賃金は一方的に下がってしまうので、だから、中小が結束するのだということを訴えてきました。私が中小にお願いしたのは、2つあります。1つは中小には賃金体系をきちっとつくりなさいということです。2つは、これからは自分らが要求をし、自分らが交渉しなければ中小の賃金は上がらないことになるということです。大手は大体6,000円から7,000円ぐらいの体系維持分相当があるが、中小の場合は賃金体系がないから、経営から苦しいと言われたら、賃上げは今年もだめでもしようがないなということになる。こんな形でやっていれば中小の賃金は下がりっ放しになる。そのために中小でも4,500円相当分ぐらいの体系維持分を確保するようにと、私は訴え続けてきました。
ただ、マスコミの皆さん方はいろいろな方が来られます。三田倶楽部の人はベテランばかりですから、一々根掘り葉掘り聞きませんが、最近の四大紙を中心としたマスコミの方は新人が多いんです。したがって、賃金の「ち」の字もわからない人が来るわけです。その結果として、JCの春闘がこういう変化を起こしているんだと言っても全然わからないんです。その結果、私が言ったのは、「20世紀のJCの春闘は終えんしたんだ」とわかりやすい言葉で言ってしまった。それがいろいろなところでマスコミの記事になって、皆さん方に誤解を与えたと思います。
したがって、私は、決してJC春闘が終えんしたとか、そういうことを本意で言ったわけではなく、むしろ、私は、先ほど来議論されているように、JCは少なくとも日本の中で賃金を決める先導的な役割を今後もやっていかなければいけない。そのときに、先ほどからありますように、新しい1つの指標であります大くくり職種別賃金というものを機軸に置いて、JCに集う皆さん方が新しい共闘軸をつくられて、そして、日本の賃金をこれからも推進していくんだと、こんなことをやっていただければ、私としては非常にありがたいと思っているところでございます。
生意気なことを言うようでございますけれども、改めてそんなことを申し上げさせていただいて、皆さん方にいただいた恩を一身に受けて、静かに去っていきたいと思います。
ほんとうに長い間ありがとうございました。(拍手)
組合運動は、やはり現場から積み上げるもの
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中野前事務局次長 |
皆さん、大変お世話になりました。
3年という短い期間でありましたけれども、思い起こせば3年前に私がJC本部に来たときは、賃金闘争が火の消えかかるような感じでございました。今、ここに立って、この3年間を振り返りますと、短い間でありましたけれども昔日な思いがしてございます。
私は京都で組合運動に入りまして、10年前に東京にやってまいりまして、本部の活動をするようになりました。JAMの人間が金属労協の労働政策局を担当するのは私が初めてだろうと思います。
その意味では、JAMのような中小がたくさんある産別の者が、大手の皆さんがたくさんいらっしゃる金属労協の中で労働政策を担当することができるのかと、正直不安でやってまいりました。
ただ、京都で活動しておりましたときに、私は團野事務局長と賃金論のお話をしまして、共鳴しておりましたので、何とかやれるのかなと、精いっぱい事務局長のお世話になりながらやってみようということでやってきたつもりでございます。
その意味では、2006、2007年の闘争は何とかJCの力で、あるいは連合全体に波及するような賃金改善の流れをつくり得て、事務局として活動ができたというのは、短い間ではありますけれども、まさに「男子の本懐」と感じております。
さらに、最低賃金につきましても、5年間、中央最低賃金をさせていただきましたけれども、電機連合の加藤さんに随分お世話になりながら、お教えいただきながらやってまいりました。産別最賃廃止から始まった最低賃金法改正も何とか産業別最低賃金制度を残すことができ、国会に上程されるところまで行きましたし、最後になりました今年の中央最低賃金審議会では、従来にない大幅な最低賃金の引き上げが実現したということも、また大きな思い出になろうかと思います。
しかし、何よりも私の思い出は、多くの産別の皆さん方とお会いでき、お話しでき、そして、3年間貴重な経験をさせていただいたということが何よりであったと思います。
私は、JAMの本部の指示のもとで、今度、新たな職務につくことになりました。JAMの組織改革という中で、愛知と岐阜と三重をテリトリーにしながら、地方活動を推進していきたいと思っております。
私は、組合運動というのは、やはり現場から積み上げるものだと思っておりますので、本部でいただいた経験と知識を最大限現場で生かすような活動にこれから取り組んでまいりたいと思います。
最後に、この3年間の皆様方のご交誼に厚く御礼を申し上げまして、お礼のごあいさつにさせていただきます。
ありがとうございました。(拍手)