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WORLD NOW No.68
韓国における労使政三者構成の「或る」協議が、デッドロック状態に陥っている。 それは、観測筋ならずとも見逃すことの出来ない関心事である。そして、そうした三者協議の難航ぶりは、この国のシステムの若さに起因するとするむきもあろうが、むしろ、その協議の場が利害関係の異なるロール・プレーヤーの集合する“ステージ”である以上、ときに妥協の見出せない局面に逢着するのもやむを得ない仕儀ではある。そう理解するのが現実的というものであろう。
というのは、労使政三者委員会から脱退して久しく、一定の距離をおいてきた民主労総(KCTU)が、2004年に至って労使政委員会“改編”の要求を提起したこと、そして、しかもそれに応じて、年央には、改編を最優先の課題として論議するための“労使政代表者会議”を発足させ得たことが、近未来への積極的な効果を期待させていたからであったろう。 第1回会議は6月4日、プレスセンターで開かれ、6名の構成メンバーが出席した。すなわち、労使政委員会委員長、労働部長官、韓国労総(FKTU)委員長、民主労総(KCTU)委員長、韓国経総(KEF)会長、そして大韓商工会議所会長である。 会議は、労使政三者間の対話の窓口を復元することで合意するとともに、今後のシナリオとして、労使政委員会の改編案を最優先の議題として論議し、その後、労使関係に関する法・制度の“先進化”方策について論議することとしたのである。 それは、大方の見るところ、順調な滑り出しと言えた。 第2回会議は、7月5日、経総会館で開かれ、労使政委員会の改編について、以下に記載する主要な争点について論議を戦わせると、さらに7−8月中に、労使政委員会の運営委員会と実務委員会とを随時開催して、争点に係わる論議を詰め、結論を導き出すよう努力することで合意したのである。論議はさらに前進したのだ。 すなわち主要な争点とは、概要次のようなものであった。 −機構の性格に応じた行政委員会を立ち上げるのか、または現行の諮問委員会の方式を維持すべきなのか。 −論議すべき議題を一般的経済・社会政策に拡大する方策をとるのか、または労働政策を中心にしつつ、それに関連する経済・社会政策に関する実質的な論議をなし得るようにする方策をとるのか。 −参加主体(ロール・プレーヤー)に関連して、 現行の労・使・政・公益の構成を維持する方策を維持するのか、またはそれらに加えて市民団体および/または政党代表の参加を得るようにする方策をとるのか。 −産業別・業種別レベルの労使共通課題と政策事案を協議するための、産業別・業種別協議会を設置する必要性について、などである。<ページのトップへ>
しかし、8月6日に予定された第3回会議を前に、民主労総(KCTU)は、7月27日に開いた常任執行委員会で、「労使政代表者会議に委員長を送ることを留保する」との決定を下したのである。思いがけぬことであった。理由は、「最近の屋外行動に対する当局の“労働弾圧局面”は、労使政代表者会議を無意味にしている。」との判断が働いたということで、その限りでは、従来の三者会議脱退の理由と大差は無いように見受けられた。 少し違うのは、しかし、“留保”を宣言する と同時に、「現時点で社会的交渉が必要であるかどうか、今後組織内外の意見を集約して、検討を続ける」方針を明らかにしたことであろうか。 こうして、代表者会議は無期延期となった。すなわちデッドロックである。 10月に筆者が訪韓した時点では、民主労総(KCTU)は人材派遣法案、韓日自由貿易 協定交渉、公務員の基本権を定める法案等を巡り、彼らの言うゼネストを含む全国的な抗議運動を展開中であったし、さらに関係者・観測筋との懇談でも、労使政代表者会議への近日中の復帰は、まず不可能との印象を得た。 言わずもがな、このことをもってこの国の社会的合意形成システムが完全に挫折したことを意味するのではない。依然として、民主労総(KCTU)不在のまま、韓国労総(FKTU)が労働界を代表して三者委員会が営まれていくであろうことは、予測に難くない。<ページのトップへ>
強権政治・開発独裁の朴正煕政権(1962−1979)、全斗煥政権(1980−1987)の両時代にあっては、今更述べるまでも無く、「複数組合主義の禁止」「組合の政治活動の禁止」「第三者介入の禁止」という所謂「三禁」を初めとする労働基本権の侵害・抑圧がもっぱらであり、そこでは民主的な三者協議はおろか、労使対等を原則とする労使関係すら覚束なかったのである。 かろうじてそれらしき動きが見られたとすれば、それは1987年「労働者大闘争」を経た盧泰愚政権(1987−1992)時代のことであり、1992年「労働関係法研究委員会」の発足がそれであったと言えよう。これは労働長官の民間諮問委員会で、労使のほか、学界、法曹界、言論界から各3人の代表が参加する構成であった。 次いで、初の文民政権である金泳三政権(1993−1997)時代になると、盧時代の委員会を引き継いだものの、具体的な成果は得られなかった。そのため、金大統領は、1996年、「新労使関係構想」を発表して、労使の自立と責任、参加・協力などの構想を基本に、「労使関係改革委員会(労改委)」を設置した。 この委員会では、懸案事項140項目のうち107項目までの合意を見たものの、長年労働側の要求してきた「三禁」の廃止を含む33項目については、労使の対立が激しく合意への道は夢と化したのである。 結局、作業はデッドロックに陥り、同年11月、政府は従来の構成を諦めて、政府部内に「労使関係改革推進委員会」を設置し、政府としての労働法改革案を策定した。この法案は12月国会に上程が予定されたのだが、与党の新韓国党は12月26日未明、与野党共同提案の形での提出を主張した野党を出し抜き、突如与党単独採決で通過させるという「奇襲可決」を演じてしまった。 これが、民主労総(KCTU)、韓国労総(FKTU)両組織の猛反発を呼び起こしたことは記憶に新しい。すでに清算されていた筈の軍事独裁的手法を想起させるとともに、根付きはじめた民主主義の危機とも捉えられたことは、想像に難くない。しかも「整理解雇の導入」や、「複数組合主義」導入の先送り(2002年)など、改革というよりは改悪とされもしたのである。このため、翌1997年、両組織は共闘し、75万人を動員するゼネストを展開するに至る。そして國際労働運動の連帯行動を呼び起こすなど、三者協議のデッドロックは、予想外の結末に繋がったのであった。
金大中政権(1997−2001)の登場は、アジア通貨・金融危機のさなか、韓国未曾有の危機とも言える時期に重なった。金大統領は、就任演説で「市場経済と民主化の協調した発展」という統治理念を訴えた。この事実は、その後直ちに危機対策に立ち向かう政策の中で本格的な「労使政委員会」の立ち上げに繋がった。(「政労使」ではなく「労使政」とする表現には、それなりの意味がある。) 金大中大統領は対話運営に強い関心と支援を寄せたのである。経済危機打開はもちろん、労使関係安定化のためにもそれは重要と認識していた。 労使政委員会は、1998年1月15日に設立された。その設立と運営に関する法律(法第5990号)が、翌1999年5月24日に発布施行された。 三者機構設立は、緊急経済援助を提供した國際通貨基金(IMF)の要求の産物だとする批判の声もあった。厳しい融資条件(コンディショナリティ)を適用するに際し、国民の抵抗を少しでも和らげるための戦略ではないかとの疑念を示したのであったろう。 ミシェル・カムドシュIMF専務理事が、金大中大統領との会談の際、三者機構によるソーシャル・ダイアログのニーズに言及した可能性はあったと思われる。しかし、その会談は、1998年1月13日のことであり、労使政委員会発足のわずか2日前のことなのだ。 外圧で出来たか否かは、危機打開を迫られていた環境からすれば、それほど大きな問題ではなく、むしろ大統領の発意と労働者の政策決定過程への参加意欲に負うところが大きかったとする見解を重視するべきであろう。民主労総(KCTU)も委員会発足当初、これを政策の協議・立案の機関とみなしていたのである。 <ページのトップへ>
労使政委員会における協議がスタートすると、まず「危機克服のための三者による社会契約」が合意されたのが記憶に新しい(1998年2月)。三者が負の分担を決めたのである。2000年には金融部門の発展と改革のガイドラインに関する合意、郵便局における構造調整の合意、年間労働時間短縮の基本方針に関する合意などがあり、2001年には注目の組合専従者への給与支払いと企業レベルでの複数労組に関して、5年間の猶予措置を認めることで合意している。 國際格付け機関が韓国経済の潜在成長力を楽観視し、社会的な協調精神を高く評価したことが喧伝されたが、ILOは労使政委員会を「金融危機の社会的費用を抑制するための社会政策と経済政策を構築する上で不可欠の要素」と評価し、社会的パートナーシップのニーズと重要性を指摘しながら、市民社会で強力な協議組織が成長していることは、大きな前進であるとした。 ある韓国の学者は、「制度化された社会的コーポラティズムによって、労使の平等な関係が実現した。」とまで述べた。 しかしどうであろう。委員会における協議の実態は、予測されたように、対立する利害関係からすれば、常に平和的に合意に至るシナリオは描き難いのが道理だ。 早くも1998年5月には民主労総(KCTU)が不参加を表明、整理解雇、派遣労働の禁止、財閥解体等を求めてゼネストを宣言している。同年7月には、民主労総(KCTU)、韓国労総(FKTU)両組織が、公務部門、金融部門の一方的な構造調整に反対して不参加。同じ月、今度は韓国経営者総協会(KEF)が、政府の労働者指向の政策に反対して不参加を表明している。
韓国政府が、労使政委員会というコーポラティスト的手法によって、労働組合を言わば懐柔し、職場での紛争を抑制する方向に動いたことは確かであった。合意事項が公正を欠くとの批判も出て、寄せる関心が薄れたこともある。 金大中政権が労使政委員会の場で、労使協力と調整を行うことによって、産業社会の安定を得ることを明確な目標にしていたことも事実だ。また委員会の設立が、同政権の尊重したはずの人権と民主主義という、重要な政治課題の側面からも捉えられたこともまた事実であった。 しかし、民営化と構造調整の負の影響に強く晒された労働者は、和解と対話による労使の協力路線よりも、分かりやすい戦闘的な労働運動を選ぶ傾向を強く示したように見受けられる。それは、長年、強権政治・開発独裁のもとで呻吟し、87年大闘争で状況の逆転を実現した運動のDNAが、脈々と息づいている結果だと言えなくも無い。 そうした状況を踏まえた上で、最近見られる論評は、「オープン・エコノミーの中で、新たな変化に遭遇している労使は、双方にとって有利な、ウィン=ウィン戦略を模索し始めている」とするものである。 その意味では、経済危機を最小限に抑制し構造調整の推進とその負の影響を最小化する ことを目指した労使政委員会だが、その後も、「持続的な成長と社会対立和解への基礎固めの役割を果たしている」との論評も現れていることを無視することは出来ない。 同委員会の質的向上が問われる由縁である。 冒頭触れたように、民主労総(KCTU)は、その提案を行ったわけだ。その背景には、言わずもがな、2004年総選挙で、‘小なりと言えども’支持する民主労働党(DLP)が10議席を獲得したことと無関係ではあるまい。民主労総(KCTU)の政治的影響力が拡大したと同時に、それに見合う社会的責任も拡大している。アプリオリに経済グローバリズムに異を唱え、自任する戦闘的運動路線の推進と、ソーシャル・ダイアログ、もしくはネオ=コーポラティズムの活用という糸を、どう織り上げいくのかは、2005年における大きな見どころと言えるだろう。 (注)ちなみに、民主労総(KCTU)不在のうちに、韓国労総は(FKTU)は、労使政委員会で、労・政・公益委員が推薦した共同研究グループの研究結果に基づいて、「電力産業構造改編基本計画」(99年政府発表)に依拠した韓国電力の配電部門の分割を決定している(2004年6月)。 (2004年12月15日記) <ページのトップへ> |